1.研究開始当初の背景
近年、自閉症スペクトラム障害(ASD)をはじめとした発達障害と診断される人の数は急上昇している。他方、同じ診断基準を用いればASD有病率は、1983年では0.7%、1999年では1%であり、有意な増加は認められないという報告もある(Kadesjö et al., 1999)。すなわち、現在ASDと呼ばれる特徴を持った人々の数は、それほど大きく増加はしておらず、むしろ診断される人々の急増は、かつてはそれほど問題視されてこなかった彼らが、ここ最近急に問題にされ始めるようになったという社会文化的な要因の変動を反映していると推定される。
現在、臨床や研究、制度保障の面で広く利用されているASDの診断基準は、障害についての社会モデルの考え方―個体側に帰属しうる比較的永続的な特徴であるimpairmentと、多数派の個体的特徴に合わせてデザインされた人為的環境(制度や道具、規範など)とimpairmentとの間に生じる齟齬であるdisabilityの区別―をふまえておらず、本人と周囲の人的環境との「間」に生じるコミュニケーション障害というdisabilityを、本人のimpairmentであるかのように記述している。ゆえに、社会の問題までもが本人の障害の問題に帰属されやすくなっている(Verhoeff, 2012)。
上記のような問題意識に基づき、2008年に我々はdisabilityをimpairmentへとすり替えるような既存の「社会的コミュニケーションの障害」という概念をいったん脇に置き、対人関係の次元で生じる困難以前の、一人でいるときのモノの見え方、身体における感じ取りかたなどのレベルを探究する目的で当事者研究という方法を採用し、書籍として発表した(綾屋・熊谷, 2008)。研究の結果、感覚運動情報を、カテゴリーやストーリーにまとめあげることが困難であるという特徴が根本的なimpairmentなのではないかという「情報のまとめ上げ困難仮説」を提案した。また、それを踏まえてdisabilityの生じないアクセシブルな人的・物的環境の条件を提案した。
さらに我々は、当事者研究を通じて自己理解が深まることによって、単に定型発達者向けの社会に適応するというのとは異なる形で、本人のwell-beingも向上しうることを報告した。これは成人自閉スペクトラム症者の社会的な予後が不良であること(Seltzer et al. 2004; Levy and Perry 2011)、成人ASD者への心理社会的介入の効果について良質な研究はいまだ十分ではないこと(Bishop-Fitzpatrick et al., 2013)、近年精神科領域で、社会適応ではなく社会変革を通じた当事者視点での回復パラダイムである「主観的リカバリー」の観点が注目されていることからも意義のある知見であると考えられた。
2.研究の目的
⑴当事者研究によって導かれた「情報のまとめあげ困難説」の学術的定式化と、同仮説の検証
⑵発達障害者における聴覚過敏と慢性疼痛の実態・機序解明と支援法開発
⑶当事者研究自体が持つ治療的意義の検証
3.研究の方法
⑴当事者研究によって導かれた「情報のまとめあげ困難仮説」の学術的定式化と、同仮説の検証
•医学や心理学分野の外部からの知見とすり合わせ、仮説の学術的定式化を行う。
•情報のまとめ上げ困難仮説を検証するために、既存の学術研究者と当事者研究者との共同作業によって、実験デザインの構築、実験環境の当事者視点からのアセスメント、結果の協働的解釈などを行い、共著論文を作成する。
⑵発達障害者における聴覚過敏と慢性疼痛の実態・機序解明と支援法開発
•オージオロジーの専門家との共同により、聴覚過敏の実態とメカニズムを解明するための調査・実験を行うとともに、支援機器の開発を行う。
•疼痛科学の専門家との共同により、慢性疼痛の実態とメカニズムを解明するための調査・実験を行うとともに、VR技術を用いた治療法の開発を行う。
⑶当事者研究自体が持つ治療的意義の検証
•当事者の語りの質的分析によって、Patient-centered outcome (PCO: 当事者にとって妥当性の高い効果尺度) の抽出
•全国の当事者研究グループを連携する当事者研究ネットワークを立ち上げ、各グループの実態を調査するとともに、当事者研究の効果に関する横断調査を行う。
•もっとも長く当事者研究を行っている浦河べてるの家の縦断調査によって、当事者研究の効果を検証する。
•実践家の協力を得つつ、当事者研究のマニュアルを作成し、PCOをエンドポイントとした臨床介入研究を行うことで、効果検証を行う。
4.現在までの研究成果
⑴当事者研究によって導かれた「情報のまとめあげ困難説」の学術的定式化と、同仮説の検証
仮説の学術的定式化に関しては、まず当事者研究者の綾屋が2013年に刊行した2本の論文(綾屋, 東大出版会, 2013; 綾屋, 医学書院, 2013)によって、身体内外のアフォーダンスの配置が、2つの自己感(身体図式と自伝的記憶)のまとめあげに影響を与える状況が定式化された。
熊谷は、2008年以降刊行された綾屋による論考を、他の当事者の手記や先行研究と照らし合わせつつ、2014年に博士論文や書籍(熊谷, 金子書房, 2014)として、情報のまとめ上げ困難説を提案した。翌年にはFristonの自由エネルギー原理の下でまとめ上げ困難説を解釈し(熊谷, 岩波書店, 2015)、さらに、エピソード記憶を自伝的記憶にまとめあげるsystem consolidationの困難と、睡眠障害との関わりについて検討した(熊谷, 診断と治療社, 2015; 綾屋, トラウマティック・ストレス, 2015)。2016年にはこれまで精緻化してきた仮説を改めて整理(熊谷, 発達心理学研究, 2016)し、それを踏まえて、どの様な支援法が当事者にとって助けになるかを考察した(綾屋, 東大出版会, 2016)。
2017年には情報のまとめあげ困難説」を外部観測的な側面を説明するモデルと統合し、新しいASD理論を提唱する論文を執筆した(Inui, Kumagaya, & Myowa, 2017, Frontiers in Human Neuroscience)。また予測符号化モデルによる情報のまとめあげ困難説の表現を試み、当事者研究と構成論との間で検証可能なモデルを共有し、実験を行った。
仮説の検証に関しては、綾屋の当事者研究で記述された経験を手がかりとしつつ、2つの自己感(身体図式と自伝的記憶)それぞれのまとめあげについて行った。
まず身体図式に関しては、ASDでは発声制御がフィードバックに強く依存していること(Lin et al., 2015, Frontiers in Human Neuroscience)、他者の顔を視覚的にスキャンするパタンのランダムネスが高いこと(Kato et al., 2015, Journal of Eye Movement Research)、パーソナルスペースが狭いこと(Asada, 2016, PLoS ONE)などの知見を論文発表し、ASDでは外受容感覚と内受容感覚、感覚運動の統合(まとめあげ)に困難があることが示唆された。
次に自伝的記憶に関しては、ASDの自分語りにおいて、self-event relation (自己と出来事の関連付け) が低く、自己存在感の低さが示唆されることが分かった(上出, 2015, 日本心理学会; Kamide et al., 2015, The 16th Annual Convention of Society for Personality and Social Psychology)。
またASDでは、行為者の意図性判断と、行為の善悪判断との間の関連性が低い傾向があり(Iijima et al., K., Neuroscience 2016)、エピソードの物語的解釈における非典型性の一端が示唆された。
⑵発達障害者における聴覚過敏と慢性疼痛の実態・機序解明と支援法開発
聴覚過敏に関して、我々は一般大学生を対象に,カルファの聴覚過敏尺度日本語版(6件法)を作成し、「選択的聴取の困難」「騒音への過敏と回避」「情動との交互作用」の3因子構造を持つこと、また、「聴力異常の既往」「抑うつ症状」「性別」「顔面神経麻痺」は聴覚過敏と相関せず、「不安症状」「睡眠障害」「頭頸部手術の既往」の3つが有意に聴覚過敏と相関していることが明らかとなった(熊谷ほか, 2013, Audiology Japan)。また、聴覚過敏がPTSDスコア、自閉スペクトラム症スコア、ADHDスコア、日中覚醒困難、左耳の最小不快閾値(LDLs)と相関し、聴覚過敏スコアの下位スコアである選択的聴取困難が両耳間時間差(ITD)の感度の高さと相関しており(熊谷, 2014, ) 教育オーディオロジー研究、脳幹オリーブ核における傷害の関与が示唆された。
さらに支援法開発としては、A01班との協働により、自閉スペクトラム症における聴覚過敏特性に基づいた個人適応型過敏性緩和システムを提案した(市川樹ほか, FIT2016第15回情報技術フォーラム)。
慢性疼痛に関して、当事者研究や(綾屋, 2015, トラウマティック・ストレス)、先行研究のレビュー(熊谷, 2014, Practice of Pain Management)に基づき、ASDでは内臓感覚を含んだ身体図式や、自伝的記憶のまとめ上げ困難を痛みとして経験する可能性があることを述べた。
実験的には、ASDでは触覚閾値は正常だが、触覚刺激に対する交感神経反応が亢進しており、内臓感覚-自律神経系の関与が示唆された(Fukuyama et al., 2017, Scientific Reports)。加えてA01班との共同で、神経障害性疼痛患者の患肢の脳内運動表象を定量化する手法を開発し、運動表象(身体性)の破綻による痛みの発症機序を解明するとともに(Osumi et al., 2015, Neuroscience Letters)、仮想現実(VR)を用いた神経リハビリテーション治療を行い、その治療機序が身体性の再獲得(知覚-運動協応の再統合)であることを解明した(Osumi et al., 2017, European Journal of Pain)。また、体性感覚刺激を同期入力することによって治療効果が高まることを明らかにした(Sano et al., 2016, Journal of NeuroEngineering and Rehabilitation)。
さらに慢性疼痛では身体図式のまとめ上げ困難だけでなく、空間認知にも異変が生じており、視空間表象と内的空間表象の認知が鏡像として表象されていることを明らかにした(Sumitani et al., 2014, Brain and Cognition)。
以上を踏まえつつ、ASDにおける感覚過敏・鈍麻に関する総説を発表した(熊谷, 2015,発達障害研究)。
⑶当事者研究自体が持つ治療的意義の検証
Patient-centered outcome (PCO: 当事者にとって妥当性の高い効果尺度) の抽出としては、2005年から2013年までに寄せられた当事者研究 225事例のそれぞれについて、「考察」のセクションから当事者研究のメリットに焦点を当てて分析した研究(山根ほか, 2014, 日本精神障害者リハビリテーション学会第22回いわて大会) や、精神障害や発達障害の当事者7名を対象に行ったグループ・インタビューの分析(Sato et al., 2014, Joint World Conference on Social Work, Education and Social Development)から、首尾一貫感覚(自分の生きている世界は筋道が通っているという感覚であり、1) 自分の置かれる状況がある程度予測または理解できるであろうという「把握可能感」、2) 何とかやっていけるという「処理可能感」、3) 日々の営みにやりがいや生きる意味を感じられるという「有意味感」の3因子構造を持つ)の妥当性が示唆された。
横断調査としては、2012年に立ち上げた当事者研究ネットワークによる調査により、ASDにおいては反芻傾向が高く、把握可能感が低い傾向があるとともに、反芻傾向と把握可能感との間に強い負の相関関係(spearman ρ= -.712, p < .001)が認められた。ASDに対して当事者研究によって把握可能感を高めることが、当事者のwell-beingを大きく損なう反芻傾向に対して治療的な効果を及ぼす可能性が示唆された。また、誰と当事者研究を行っているかが、処理可能感、有意味感と関連している傾向が認められ、「一人で」<「支援者・医療者と」<「同じような困りごとを抱えた当事者と」<「家族と」の順に効果が高くなる傾向が認められた(熊谷, 2016, 日本整形外科学会誌)。
縦断調査としては、2010年から2014年の5年間にわたり浦河べてるの家に通う統合失調症の主診断を持つ外来患者を対象に質問紙調査および半構造化面接を用いた症状評価を行った分析の結果、当事者研究群(n=16)の自己効力感尺度の合計点は、2010年時よりも2014年時の方が有意に高くなっていた。さらに2011年時と2014年時の自己効力感は、当事者研究群の方が、当事者研究に参加していなかった群(n=19)よりも有意に高かった(石川, 2016, 認知療法学研究)。
介入研究としては、綾屋研究員のファシリテーションのもと、2012年以降、月に2回、1回1時間の発達障害者を対象とした当事者研究会を継続し、エスノメソドロジー・会話分析によって「言いっぱなし聞きっぱなし」という順番交代のルールが、ASD者にとって語りやすい環境を提供している可能性を見出した(浦野ほか, 2015, ナラティヴとケア)。加えて実践の中で、ASD者の当事者研究を進めていくうえでは、定型発達者の特性や定型社会の暗黙のルールに関する知識が必要という認識にいたり、当事者から「定型発達者、定型社会のここがわからない」という意見を抽出し、様々な専門領域からの回答を講義形式でレクチャー、意見交換をする「ソーシャル・マジョリティ研究会」を立ち上げた(綾屋, 2015, 情報処理)。
以上のような試行錯誤的な実践と分析を踏まえ、2015年6月から2016年8月にかけて、月に1回程度、当事者研究の経験が豊富な3つのグループ(統合失調症を中心とした「べてるの家」、トラウマや薬物依存症を中心とした「ダルク」、発達障害を中心とした「おとえもじて」)で定期的に研究会を開き、ASD者向けの当事者研究マニュアルと、これを用いた臨床介入研究のプロトコールを作成し、2016年9月に東京大学ライフサイエンス委員会臨床審査委員会の承認を得た(No. 16-100)。予備研究では、対処可能感の有意な上昇が認められた。